厳島 大小路・小路(西広島タイムス) ― 2005年12月17日 11時28分59秒
899号(最終回) 滝小路 格子戸が並ぶ門前町
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051216/20.html
898号(15) 海岸通り 山の稜線望む有之浦
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051209/29.html
897号(14) 富くじ 尻上がり狛犬に願う
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051202/25.html
896号(13) 桃林の小路 危機乗り越えた多宝塔
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051125/31.html
895号(12) もみじ谷公園 紅葉の錦“茂道谷”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051118/25.html
894号(11) 厳島神社反橋周辺 お花畑で花見楽しむ
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051111/40.html
893号(10) 表参道商店街 旅人のざわめき響く
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051104/37.html
892号(9) 杉之浦・包ケ浦随道 自然の憧憬を追懐
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051028/26.html
891号(8) 山辺の古径 北の薬師おやくしさん
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051021/38.html
890号(7) 北之町浜 母の声響く小路鬼遊
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051014/17.html
889号(6) 大元浦の石段 心に残る宮島ホテル
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051007/16.html
888号(5) 大小路・脇小路 昭和の暮らし漂う通り
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050930/20.html
887号(4) 厳島神社の入り江 海を渡る“引潮通”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050923/17.html
886号(3) 伊勢町 歴史薫る“百雁木”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050916/18.html
885号(2) 大町・幸町 幸神社の“石段通り”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050909/25.html
884号(1) 町家通り 今は幻の「宮島劇場」
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050902/17.html
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051216/20.html
898号(15) 海岸通り 山の稜線望む有之浦
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051209/29.html
897号(14) 富くじ 尻上がり狛犬に願う
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051202/25.html
896号(13) 桃林の小路 危機乗り越えた多宝塔
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051125/31.html
895号(12) もみじ谷公園 紅葉の錦“茂道谷”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051118/25.html
894号(11) 厳島神社反橋周辺 お花畑で花見楽しむ
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051111/40.html
893号(10) 表参道商店街 旅人のざわめき響く
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051104/37.html
892号(9) 杉之浦・包ケ浦随道 自然の憧憬を追懐
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051028/26.html
891号(8) 山辺の古径 北の薬師おやくしさん
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051021/38.html
890号(7) 北之町浜 母の声響く小路鬼遊
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051014/17.html
889号(6) 大元浦の石段 心に残る宮島ホテル
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/051007/16.html
888号(5) 大小路・脇小路 昭和の暮らし漂う通り
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050930/20.html
887号(4) 厳島神社の入り江 海を渡る“引潮通”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050923/17.html
886号(3) 伊勢町 歴史薫る“百雁木”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050916/18.html
885号(2) 大町・幸町 幸神社の“石段通り”
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050909/25.html
884号(1) 町家通り 今は幻の「宮島劇場」
http://www.l-co.co.jp/times/log/05/050902/17.html
宮島再発見2 ― 2005年12月11日 21時02分50秒
第四回 歴史を語る宮島小路探索(船附洋子先生)
前回,宮島も埋め立てが行われたことを聞いたが,今回は江戸時代に埋め立てが行われる前に海岸線がどのあたりにあったのかを,町を歩きながら聞いた。
昔の船着き場は,現在の桟橋の少し西側にある要害山あたりだったらしい。存光寺の横に百雁木(石の階段)が残っていて,海からここを上がり海岸伝いに「山辺の小径」を通って厳島神社へ参拝していた。
その後,埋め立て地ができて「町家通り」を通るようになった。宮島では土砂災害が起こるたびに埋め立てを行ってきたらしく,「表参道商店街」海岸線の道がだんだんとできていったということだった。
山辺の小径には「鳥居松」というお花見スポットもあったらしく,お花見をしている様子を描いた古い絵が残っている。
高校生の頃「宮島の神様は女の神様で,アベックで行ったら別れてしまうから行ってはいけない」と友だちが言っていた。が,これはまことしやかにささやかれていた作り話で,昔,宮島に花街があった頃,奥さんに来られては困る殿方が作り出した話ではないかという。
昔,宮島の猿はエサのない時期に町へ下りてきて,民家の屋根の瓦をはずし,瓦の裏に棲んでいる虫を好んで食べたらしい。猿は食べた後で瓦を元通りに戻してはくれないので,雨の日に雨漏りして瓦がずらされたことに気づく家が多かった。で,考え出されたのが大きな「猿瓦」。普通の瓦の4〜5倍はあろうかというくらい巨大な瓦を屋根の頂に重しのように並べてその下に並ぶ普通の瓦をめくることができないようにした。
そのうち,撮った写真を使ってHPにまとめたいけど・・・・無理かも・・・
前回,宮島も埋め立てが行われたことを聞いたが,今回は江戸時代に埋め立てが行われる前に海岸線がどのあたりにあったのかを,町を歩きながら聞いた。
昔の船着き場は,現在の桟橋の少し西側にある要害山あたりだったらしい。存光寺の横に百雁木(石の階段)が残っていて,海からここを上がり海岸伝いに「山辺の小径」を通って厳島神社へ参拝していた。
その後,埋め立て地ができて「町家通り」を通るようになった。宮島では土砂災害が起こるたびに埋め立てを行ってきたらしく,「表参道商店街」海岸線の道がだんだんとできていったということだった。
山辺の小径には「鳥居松」というお花見スポットもあったらしく,お花見をしている様子を描いた古い絵が残っている。
高校生の頃「宮島の神様は女の神様で,アベックで行ったら別れてしまうから行ってはいけない」と友だちが言っていた。が,これはまことしやかにささやかれていた作り話で,昔,宮島に花街があった頃,奥さんに来られては困る殿方が作り出した話ではないかという。
昔,宮島の猿はエサのない時期に町へ下りてきて,民家の屋根の瓦をはずし,瓦の裏に棲んでいる虫を好んで食べたらしい。猿は食べた後で瓦を元通りに戻してはくれないので,雨の日に雨漏りして瓦がずらされたことに気づく家が多かった。で,考え出されたのが大きな「猿瓦」。普通の瓦の4〜5倍はあろうかというくらい巨大な瓦を屋根の頂に重しのように並べてその下に並ぶ普通の瓦をめくることができないようにした。
そのうち,撮った写真を使ってHPにまとめたいけど・・・・無理かも・・・
宮島再発見2 ― 2005年10月23日 14時15分46秒
第一回 世界の著名な植物学者が住みたがった島 (講師:関 太郎)
講座についてはこちら→http://www.suzugamine.ac.jp/opencollege/2005/shougai2/s1601.html
関先生は,宮島にある広島大学の自然研究所所長を長年務められ,1980年代には一年間アフリカのケニアへ植物学指導のために赴任された経験を持つ。
関先生の恩師である堀川芳雄氏は仙台の吉井義次氏に師事し,吉井氏は1924年12月,Hans Molischと共に宮島を訪れた。そのときMolischは珍しい苔を発見し,Schiffnerに標本を送り,Pycnolejeunea molischie Schiffner という新種の苔として発表した。のちに津山尚が Tuyamaella molischie S.Hattori (モーリッシュシゲリゴケ)と名付けたらしい。昔はたくさん宮島でも見られたらしいが,今は,ほとんど見かけなくなった。大気の変化によると考えられる。ちなみに,最近は鹿が食べる植物も変わってきているとか・・・
ハンス・モーリッシュ 著,瀬野 文教 訳
「植物学者モーリッシュ 大正ニッポン観察記」草思社 2003年
(原題:Im Lande der Aufgehenden Sonne 直訳:日出ずる国にて)
学術書とは別に一般向けにモーリッシュがドイツ語で書いた本。近年になって邦訳されたらしい。
1913年7月 Adolf Engler来日。下関からまず宮島を訪れ,京都・奈良・箱根を経由して東京へ向かう。小石川植物園で東京帝国大学の植物学のお偉いさんたちと撮った記念写真は残っているが,宮島での記録は残念ながら残っていない。宮島で泊まった「宮島ホテル」は戦後火事で焼けて宿帳が残っていないし,訪日の翌年には第一次世界大戦が始まり,ドイツが混乱の時代を迎えたため記録を残すことが出来なかったのかもしれない。アフリカの植物を長年研究した後で宮島を訪れたエングラーの目には宮島の植物はとても魅力的だったらしく,また,エングラーの植物分類では最も原始的な植物とされるヤマグルマが宮島にあったことも影響してか,「ここに住んで,ここで死にたい」と言い残したと伝えられる。
マツクイムシの被害が見られるようになった頃,林野庁は害を受けた松はどんどん切り倒していた。しかし,広大の研究所にある松は研究のため(と言いつつ,実情は木を切るための費用がかかりすぎるのが理由だったらしい)被害を受けた松を切らずにそのままにした。その後,林野庁は伐採ではなく耐性のある木を増やそうとする策に転換し,研究所に残る枯れそうで枯れていない松を調べに来た。調査の結果,その木はとても強い耐性を持っていたため,種を採取し,育てて「スーパーマツ」として売り出した。この木が強い耐性を持っていたと言うことは,宮島の山が植林によって出来たのではなく自然のまま残されていたため,同じ遺伝子を持つ松ばかりの山ではなくていろいろな遺伝子を持つ松がはえていたということ。
宗箇松一代目は空襲の目標になることをおそれて切り倒され,二代目はマツクイムシで枯れ,三代目はスーバー松が植えられて,現在生育中。
講座についてはこちら→http://www.suzugamine.ac.jp/opencollege/2005/shougai2/s1601.html
関先生は,宮島にある広島大学の自然研究所所長を長年務められ,1980年代には一年間アフリカのケニアへ植物学指導のために赴任された経験を持つ。
関先生の恩師である堀川芳雄氏は仙台の吉井義次氏に師事し,吉井氏は1924年12月,Hans Molischと共に宮島を訪れた。そのときMolischは珍しい苔を発見し,Schiffnerに標本を送り,Pycnolejeunea molischie Schiffner という新種の苔として発表した。のちに津山尚が Tuyamaella molischie S.Hattori (モーリッシュシゲリゴケ)と名付けたらしい。昔はたくさん宮島でも見られたらしいが,今は,ほとんど見かけなくなった。大気の変化によると考えられる。ちなみに,最近は鹿が食べる植物も変わってきているとか・・・
ハンス・モーリッシュ 著,瀬野 文教 訳
「植物学者モーリッシュ 大正ニッポン観察記」草思社 2003年
(原題:Im Lande der Aufgehenden Sonne 直訳:日出ずる国にて)
学術書とは別に一般向けにモーリッシュがドイツ語で書いた本。近年になって邦訳されたらしい。
1913年7月 Adolf Engler来日。下関からまず宮島を訪れ,京都・奈良・箱根を経由して東京へ向かう。小石川植物園で東京帝国大学の植物学のお偉いさんたちと撮った記念写真は残っているが,宮島での記録は残念ながら残っていない。宮島で泊まった「宮島ホテル」は戦後火事で焼けて宿帳が残っていないし,訪日の翌年には第一次世界大戦が始まり,ドイツが混乱の時代を迎えたため記録を残すことが出来なかったのかもしれない。アフリカの植物を長年研究した後で宮島を訪れたエングラーの目には宮島の植物はとても魅力的だったらしく,また,エングラーの植物分類では最も原始的な植物とされるヤマグルマが宮島にあったことも影響してか,「ここに住んで,ここで死にたい」と言い残したと伝えられる。
マツクイムシの被害が見られるようになった頃,林野庁は害を受けた松はどんどん切り倒していた。しかし,広大の研究所にある松は研究のため(と言いつつ,実情は木を切るための費用がかかりすぎるのが理由だったらしい)被害を受けた松を切らずにそのままにした。その後,林野庁は伐採ではなく耐性のある木を増やそうとする策に転換し,研究所に残る枯れそうで枯れていない松を調べに来た。調査の結果,その木はとても強い耐性を持っていたため,種を採取し,育てて「スーパーマツ」として売り出した。この木が強い耐性を持っていたと言うことは,宮島の山が植林によって出来たのではなく自然のまま残されていたため,同じ遺伝子を持つ松ばかりの山ではなくていろいろな遺伝子を持つ松がはえていたということ。
宗箇松一代目は空襲の目標になることをおそれて切り倒され,二代目はマツクイムシで枯れ,三代目はスーバー松が植えられて,現在生育中。
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